昭和56年04月25日 朝の御理解
御理解 第66節
「人間は勝手なものである。いかなる知者も徳者も、生まれる時には日柄も何も言わずに出てきておりながら、途中ばかり日柄が良いの悪いのと言うて、死ぬる時には日柄も何も言わずに駆けっていぬる。」
昨日京都新聞が参りましたから、少しあの佐田先生に読んで貰いました。百年祭を目指して、と言う様な記事でございましたが、その中により明らかにより確かにと、金光教の信心を愈々、明らかにしていかなきゃならん。しかもそれが確かなものにしていかなければならない。私は聞き終わって思ったんですけれども、より明らかにしていかなければならない、より確かにしていかなければならない。
より確かなものにするから、愈々明らかなものになって行く訳ですが。結局金光教の信心、教祖の御教えというものは、愈々確かにおかげが頂けれるんだと、言う事を実証していけれる生き方を目指さなければならないが。その事を通してまぁ論説的に書いてありますのを聞いて、それでは百年祭を目指して、例えばそれを目指した所で、より明らかにも、確かにもならんだろうというて話したことでした。
金光教がまぁじり貧的な、だんだんこう細って行っておるような、そこにまぁ一つの焦りのようなものもある訳でしょうし、どこにその尻細りになって行くのか。ためにはいよいよ確かなおかげというものを、明らかにしていかなければならない。中には、隆々たるゴヒレイを頂き、沢山な人が助かっておるという教会もあるのですから。そういう教会の中に、どこにそういう、発展していく元があるのかと言う事を、やっぱり確かなものにしていかなきゃならない。
でなければ私はこういう、今日頂きますような素晴らしい御教えがありましても、それが生きてこない。私はこの御教えだけでも、金光教の一つの独自性というか、ね。もう本当に明らかにしていけれる、確かなものにしていけれる内容があると思うんです。いうならば、ほとんどの宗教が、確かなものように言うておりますけれどもおかしい。いうならば、迷信としか思われない事を、信条にしておると言う様な宗教ばっかりの中にです。もう本当に、人間が人間らしゅう生きていけれる手立て。
しかも必ず幸せになっていけれる、その道を説いて下さってある。それを自分で世間を狭うして行く様な、えをもってしておる、過去の宗教というものは、もう殆どもうみんなと言うて良いでしょう。キリスト教とか、仏教という大宗教を始めそうなんです。ただ金光教の信心は、こういういうならば迷信を打破して、しかもおかげの明るいいうならば、信心生活が出来れる、おかげの頂けれる宗教だと言った様な事を、もっと正面に出して行かなきゃならない。
ある偉い仏教のお坊さんが金光教は素晴らしい。あの天地書付というそのものがあるがあの御教え一つでも、金光教はあれを打ち出して行き、それをおかげを実証して行ったら、他の宗教にない宗教だという風に、褒めたというかまぁ皮肉ったというか、そう言う事を聞いた事がある。あぁいう素晴らしい教えを頂きながら、どうして信者が増えて行かんのかという意味の事を感じるような事を、言ったと言う事を聞いた事がありますがね。確かにもう天地書付なんかの場合いわゆる和賀心一つでおかげ頂けれる。
そこには、因縁もなからなければ、罪も消えて行くと言う様なね。そのおかげを頂けていけれる御教えがあるのに。中にもほんなら今日の御理解のように、いうならば迷信にこだわって、広い世間を狭うしておる、まぁ宗教を宗教というか人間は勝手なものでという風に、こう教祖、まぁ比喩を交えたような感じのする御教えであります。ね。人間というのは勝手なもんだと。
日柄も方位も言わずに出てきておりながら、途中ばかりをとやこう言う。日柄が良いの悪いのとそういう迷信にこだわって、そして死んで行く時にはまた、日柄も方位も言わずに、走っていぬるとこう言うですね。もう実にしゃれた比喩だと思います。そういう内容をもっておるのが金光教なんです。だからそう言う所を、明らかにですして行くと言う事が、いうならいわゆる、確かなものになって行くと思うんです。
確かなおかげにもなって行くし、そういう教えを正面に打ち出していくと言う生き方が、教団全体に感がえられなければ、私はいくら百年祭百年祭で、百年祭を目指して教団の力を頂いて行こうとしてもね。大した事はなかろうという風にまぁ感じるのです。ですからお互い信心をさせて頂いておる者は、矢張りこう言う御教えが本当にそうですねと、これに合点が打てれるような、信心生活が出来なきゃいけないと言う事になります。昨日田主丸の小野病院ですね。小野先生が親子で参って参りました。
今度息子さんが医大を卒業しまして、まぁお医者さんのいわば卵です。それで二人参拝して参りましてからその秀治さんと言いますが息子さんが。僕は昨日日田の叔父さんのちころへ、奥さんのご兄弟かなんかが、日田でやっぱりあそこはみんな、兄弟全部がお医者さんなんです。で日田の斎藤という病院があるそうですが。あちらへ参りましたら院長の机の上に、おかげの泉が置いてある。
もうしかも表紙が手垢で黒くなっておるような、あらこれはおかげの泉と思うて見てえおったら、その院長が言われる叔父さんが言われるのに、この本は良い本だよと。私はこれをね机の上において、何時も読ませて貰うと。もうこの本は素晴らしい本だよと。もうこれは読んでもとにかく、親孝行を中心にしたこの宗教だねと、というてその親孝行が芯になるんだと言う事を、甥の秀治さんに話されたと。
それでいや僕はその合楽にお参りしているんですよと、言おうかと思うたばってん照れ臭かったけん、言わなかったけれども。僕たちですらまぁだその、おかげの泉を毎月お父さんは取ってはおるのだろうけれども、そんなに読んだ事はないのに、もう随分古い初めの頃のおかげの泉でしょう。表紙が手垢で黒くなるくらいに、しかも机の前に置いて毎日それを読んで、いうならそれによって、おかげを頂こうじゃないけれども、何か心の定規ともしておられるというのではなかろうかと思うて。
まぁ大変嬉しい事だと思ったんです。言うなら知者も徳者もとこう言われるが例えば、お医者さんと言う事なんかは、やっぱり知者の内に入るでしょう。いうなら知識階級とでも申しましょうかの人達が、合楽の方を見てこれは素晴らしい。しかも毎日そのおかげの泉の内容に、段々触れて行かれて素晴らしい本だよと、こう言うておられる。結局金光教の信心には、例えばお医者さんでもみんな、合点の行く事が説いてあるのです。それがおぼろげであっても、合楽理念に基づくとそれがはっきりと。
誰でも分かるように説いてあるのです。この頃から見えたあのお医者さんの場合でも、薬は毒だと。ね。だから毒が薬になるように、毒が変じて薬になるような祈りをもって、頂かなければいけないと言う様な話を聞いて、成程その通りだという風に言われるように。それは医学者であるから分かるのです。知者であるから分かるのです。だから合楽のまぁ素朴なというか、私のまぁお話は下手な事でございますけれども。下手なお話の中にそこに感じるものがある。
成程素晴らしい、いうなら迷信などにはとらわれない。いうならばお医者さんあたりがです、成程そういう明るい確かなおかげを頂いておるお話を聞かれて、読まれておるのではないかと思います。確かに合楽のお話はね一冊のおかげの泉なら、おかげの泉を本気でいうならば何べんも、何べんも、繰り返し読めばおかげになるです。ね。お医者さんの場合は、ただ、良い事が書いてあるというだけであって、ほんなら金光様にお縋りをすると言った様な事がないでしょう。
けども私どもの場合は、それを分かれば分かるほど、日々のお取次を頂いて、お願をして本当の事が血に肉になって行くのですから、おかげにならんはずはないです。お互いも愈々もっと明るく、又はより明けらけくより確かなおかげをね。頂いて行くためには、今日あたりのような御教えが、本当に身に付かなければね、行けないと思うんです。もうあらゆる宗教が、迷信としか思われないような事を言わないという宗教は、まずないです。勿論ほんなら和賀心和らぎ喜ぶ心ひとつで。
おかげの頂けていけれるお道ですし、そのお道の中には今まで私どもがその事によって、縛られておった広い世の中を狭くしておったような事が、観念的にも観念してしまっておるようなものを打破していく。もう一切私どもの前には有難いものだけしかない。一切神愛と頂いていけれる信心、ね。人間は土より出でて土に帰るとこう、私は頂いておる。ですからその道中とても矢張りほんなら、土の信心をもってするほかないと、合楽理念じゃ説きますから。もうその御教えだけでもです。
私どもがいうならば土の心を土の心として、成り行きを尊ぶとか黙って治めるとかというのは、そのままもう土の信心です。ね。生まれて私どもが土から出でて、土に帰って行く。その道中とても矢張りいうなら、ここではその道中ばかりをいうなら、日柄が良いの悪いのと言うてと、こう言っておられるのですから。その道中とても良いの悪いのと言わずに、一切を土の心で受け抜いて行くと言った様な生き方が、おかげが頂けれる、いうならば筈だというものを思います。ね。
土より出でて土の心で生きて行き、また泥に帰って行くという。こんなにはっきりと道理に合うた御教えはないと思います。愈々、そこん所を身につけて。人間は勝手なものでと言うのではなくて、人間に生まれてきたと言う事がです。ね。その道中の生き方生き様というものを、迷信的なものではない。確かなものとして教えておられるのですから、それを確かなものにして行くというおかげを、表して行かなければいけない。ためには矢張りそれをその教えが、本当に血に肉になるような、ね。
信心のないいうならばそのお医者さんでも、これは、なかなか良い事が書いてある。医者にとって特に、まぁいうならば心の定規にでもなるという風に感じておられるからこそ。何時も自分の机の上に置いて、おそらく、一ページずつでも、二ページずつでも、読まれておるのじゃなかろうかという風に思うんです。どうしてそこにおかげの泉を入手されえたかは、私は分かりませんけれども。
そういう風に大切にして行かれると言う事ほど、嬉しい事はないここで頂く御教えがそのくらいに、一つの執念のような思いでね、教えを大切にしていくおかげを頂いて、そして成程確かなものである。そして明るく頂いていけれる、教祖金光大神の御教えと言うものが、確かに本当に何と言うでしょうか。あらゆる宗教を含めていうならば一番間違いのない宗教だと言う様な、確信のもてれる信心を、愈々身につけて行きたいと思うね。
どうぞ。